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★お散歩日和★ ~ご当地紀行~

カテゴリ:中学入試( 85 )

チア☆ダン

聖光学院 (東京都)
間違ってます。
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by hata_28ych | 2017-04-27 21:36 | 中学入試 | Comments(0)

入学式

ちょっとこの国旗のつけ方が気になりました。。。
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by hata_28ych | 2017-04-08 22:29 | 中学入試 | Comments(0)

久々に芝カバン

久々に芝中の肩掛け白カバンを持った生徒に会いました。

なんとその子は、
芝カバン
プラス
パンパンに荷物の詰まったエナメルバック
を背負っていました。

確かに、自分も肩掛けカバンだけでは、荷物が持ちきれずに、サブバッグを持っていたことをおもいだしました。


by hata_28ych | 2017-03-11 14:26 | 中学入試 | Comments(0)

なかなか厳しい

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by hata_28ych | 2017-03-01 00:35 | 中学入試 | Comments(0)

芦田愛菜、超名門私立中に合格 昨夏から芸能活動セーブで1日12時間の猛勉強

女優の芦田愛菜(12)が、都内の名門私立中学に合格し、今春から進学することが10日、分かった。

 同中学は、偏差値70を超える首都圏では最難関校の一つとして有名。芦田は、女優業のかたわら、大手の中学受験予備校に通い、見事にサクラを咲かせた。

 昨夏から芸能活動をセーブ。小学校にも休まず通いながら、休日には女優業で培った集中力を発揮し、1日12時間の猛勉強をこなしたという。

 知人によれば、同校以外にも、東大合格者を多数輩出するトップレベルの中学などにも複数合格しているという。天才子役が学問の面でも“天才”だったことを証明した形だ。

 芦田は5歳だった2010年に、日本テレビ系ドラマ「Mother」に出演。子供離れした演技力で注目を集めた。翌11年にはフジ系「マルモのおきて」でゴールデン枠の連ドラ史上最年少(6歳)で初主演し、高視聴率を記録。主題歌「マル・マル・モリ・モリ!」でCDデビューも果たし、同年の紅白歌合戦にも最年少で初出演した。

 「マルモ-」で共演した鈴木福(12)や、現在、NHKドラマ「精霊の守り人 悲しき破壊神」に出演する鈴木梨央(12)、女優とフィギュアスケーターの二足のわらじを履く本田望結(12)など、“愛菜ちゃん世代”の子役たちも、来春からそろって中学生。大人への階段をどう上っていくのか、注目を集めそうだ。
by hata_28ych | 2017-02-11 10:15 | 中学入試 | Comments(0)

工藤校長先生の後任

先日、工藤校長先生が退任されたら・・・?というお話になり、後任はどんな方かという話がちらっと。
工藤先生は、ずっと社会科の先生をされていて、当時在校していた子に聞くと「まめたん」というニックネームで呼ばれていたそうです。その後は、聖マリア学園学園理事、法人事務局長、教頭、2004年から現職です。ということは、もう11年になるんですね。この10年で本当に学院を取り巻く様子は変わりました。工藤校長のトーク、発想、経営力のたまものだと思います。じっくり工藤先生とお話をしてみたいものです。

そんな私も工藤教の信徒です(笑

by hata_28ych | 2016-11-27 19:26 | 中学入試 | Comments(0)

横浜市立南高校・附属中学校

数年ぶりに南高にやってきました。
前に来たのは、もう10年ほど前!?
あの時は、南高ホールにお邪魔して、校長先生とお話をさせていただきました。懐かしい。
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by hata_28ych | 2016-09-25 02:45 | 中学入試 | Comments(0)

2番手校を東大合格でミッション系全国首位に成り上がらせた「中小企業のおやじ」

 横浜港をのぞむ山手の丘に立つ聖光学院中学校高等学校。中高一貫の進学校として知られる私立男子校で、2016年の東京大学合格者数は71人と全国6位、ミッションスクールとしては全国随一を誇る。しかし、1990年ごろまでは毎年の東大合格者数も20人ほどと、同じ神奈川県のミッション校、栄光学園の後塵(こうじん)を拝していた。「2番手校」はいかにして「一流校」に成り上がったのか。自身も聖光OBの工藤誠一校長に聞いた。
▼聖光学院 フランスで1817年に設立されたカトリックのキリスト教教育修士会による学校法人聖マリア学園が経営母体。1958年に中学校、61年に高校を開校。高校での生徒募集を行わない完全中高一貫校で生徒数は1学年225人。卒業生に小田和正(ミュージシャン)、田中伸男(元国際エネルギー機関事務局長)、松本純(衆院議員、国家公安委員長)、小松一郎(故人、元内閣法制局長官、元駐仏大使)、杉本哲哉(マクロミル創業者)、高島宏平(オイシックス社長)、勝沼栄明(衆院議員)、大西卓哉(JAXA宇宙飛行士)など各氏。姉妹校に静岡聖光学院中学校高等学校(静岡市)がある。

■低迷の時代を乗り越えて

 なぜ栄光を追い抜くことができたのか? それは栄光を目標にしていたからでしょう。聖光は栄光からほぼ10年遅れで学校ができました。同じカトリック系ミッションスクールの中高一貫の男子校で、めざすところも同じ。栄光の教育方法にいろいろと学んだそうです。開校から10年もたたぬうちに進学校として、栄光と並び称されるようになりました。
 カナダから来日した修道士(ブラザー)の初代校長の下、当時の生徒たちは厳しいながらも自由な学校生活を謳歌(おうか)していました。3期生の小田和正さんたちのオフコースが生まれた土壌もそうしたところにあったのでしょう。私は11期生ですが、厳しさと包容力を兼ね備えた学校だったと思います。
 ところがその後、初代校長が急逝し、低迷の時期を迎えます。労使の問題が起こるなど、混乱が続いたためです。私が大学を卒業し、教員として学校に戻って来たのはそのころでした。ようやく校内が落ち着いてきた84年、現在は学院長を務めるトマス・トランブレ先生が3代目の校長に就任、改革への取り組みが始まります。
 まず85年に他校に先駆けて2回入試を導入しました。入り口を広くして優秀な生徒を取り込むためです。当然、来るべき少子化問題を見据えたものでした。

■「進学校」の枕詞はいらない

 私が92年に管理職として、学校事務をあずかる事務長に就任した際、まず考えたのは「進学校」という枕詞(まくらことば)で語る教育をやめようということです。「進学校だから」といって、クラブ活動や宗教教育、芸術活動をないがしろにしてはいけないと。それまで本校は、受験に関係することだけをギチギチやっていました。「それだけですませてしまうのをやめよう」というのが改革の出発点でした。
 めざしたのは「開かれた学校」です。生徒たちを学校に縛りつけず、積極的に外に出す教育をめざしました。新たに設けた体験型の学習講座「聖光塾」では、企業など多くの外部の人たちを講師に迎え、生徒たちが自由に選択して参加できるようにしています。2004年に校長に就任してからも、こうした取り組みに注力してきました。学校で活気を生めたと思います。
 6カ年の中高一貫校では、どうしても中3、高1が中だるみとなります。ここで、学校生活への関心をいかに保つかが重要となります。泊まりがけの校外活動などで、非日常的な空間をつくり、生徒の活性化をはかっています。
 加えて、ファンダメンタルな教養を養うことを狙い、多くのプログラム、カリキュラムを用意し、どんどん変えていっています。企業にとっての新商品と同じです。主だった学校の方針は変わらずとも、時代に合ったプログラムを提供していかなければなりません。
 大切にしなければならないのは生徒の成功体験です。持っているものを伸ばせるように、よりステージを多くしたいと考えています。生徒が達成感を得られるチャンスを増やすためです。「学校に来て楽しい」という幸福感を生徒が持つことが最も大事なのです。

■東大合格者数をどうやって伸ばしたのか

 進学校として、難関大学の合格者数を増やすことが競争力の源となります。早稲田大学や慶応義塾大学の合格者数を伸ばすだけなら結構いけます。1人の生徒が複数の学部を受験できるからです。しかし、東大となると数がちょっと落ちます。1つの学部を1回しか受験できないためです。ですから、受験する生徒層の厚さを増していくことが必要となります。
 本校では高2から文系と理系に分かれ、それぞれ選抜クラス1つを含む3クラスの計6クラスとなります。社会科は全員、2科目をとらせています。数学をとっていない生徒はいません。できるだけ多くの生徒が東大を受験できるようにするためです。
 合格者数が50人を超えるには、全クラスから合格者を出す必要があります。幸い取り組みがうまく回り出しており、全クラスから東大合格者を出しています。いまでは毎年の東大受験者数は100人以上、合格率は7割ほどとなりました。
 かつては成績が基準に達せず留年する生徒がいましたが、私が校長になってからは1人もいません。教師のフォローアップはもちろん、勉強が遅れがちな生徒の勉強を卒業生がみる仕組みもあります。落第点の「赤点」はありますが、全国的な水準でみて、卒業にふさわしいかを判断しています。我々が選抜した生徒たちですから、我々の責任です。

■教師の待遇を改善

 かつては本校でも労使の対立などで、学校が混乱したことがありました。私が事務長になり、抽象的な教育論を労使協議で語ることをなくしました。その結果、協調的な関係を築けるようになりました。
 労使で協議するのはあくまでも待遇であり、労使の協議は教育方針について語るべきではないと考えました。「学校はどうあるべきか」は路線闘争にしかならないからです。
 ただ、私はしかるべき待遇はしたいと考えています。教師の力を発揮してもらうため、いい教師を集めるためです。公立に比べると身分の安定がない私学なので、公立より待遇はよくする。他校と比べてひけをとらないものが必要です。
 65歳定年の終身雇用で、給与の引き下げもありません。経済的な安定性がないと、中高生と向き合えないからです。生徒たちは多感な時期なので敏感にそれを感じ取ってしまいます。教師が安定した気持ちで、思春期の子供たちと向き合える環境をつくることが大切なのです。


■学校は中小企業

 学校は教師という知的労働者の集まりです。ただ、組織としては中小企業。大組織ではないので、中小企業ならではのフォローが必要です。学校は「鍋ぶた型構造」の組織です。トップに校長がいて、そのほかの教師たちは基本的に横並びの構造で、ピラミッド型とは異なります。普通の会社のトップなら上意下達で社員が動くのが普通でしょうが、中小企業ではトップが3倍、4倍、動くことが必要となります。私も一人ひとりとの面談など、教師とのコミュニケーションを重視しています。
 私の実家は自動車部品会社です。家と工場が近接していましたから、経営者としての父親の立ち振る舞いをよくみていました。中小企業の息子ですから、経営の感覚が、肌感覚でわかります。学校経営者として、それも役立っていると思います。

■少子化を勝ち抜き、世界の競合と伍すために

 教育環境を整えるために老朽化した校舎を建て替え、2014年に新校舎が完成しました。少子化が進むなか、いかに優秀な生徒を集めて、その資質を伸ばして、世に送り出すかが我々には問われています。生徒たちが競うのは日本国内だけに限りません。欧米にとどまらず、勃興めざましいアジア諸国もライバルです。中間層で比べれば日本の子供たちの方が優秀かもしれませんが、トップ層で比較すると競争の厳しいアジア諸国の方が勝っているように思えます。

そうしたライバルたちに負けずに伍(ご)して戦っていく力を生徒につけさせなければなりません。真の意味でのエリート教育が必要なのです。語学力はもちろん、IT(情報)リテラシーでもそうです。
 東大合格者を多く輩出することは重要です。本校はいわば「東大依存型校」ですから。しかし、「脱東大」では駄目です。東大合格者数を保ちながら、効率よく医学部にも合格させ、米ハーバード大など世界の一流校にも生徒を送り出していきたいと考えています。 日本を代表してほかの国の若者と戦える人をつくるのが使命。ただし、根底にあるのが1度しかない10代を幸福感を持って暮らしてもらいたいという気持ちです。










by hata_28ych | 2016-08-13 10:43 | 中学入試 | Comments(0)

脳腫瘍と闘い作曲 加藤旭さん死去 16歳 昨年発表のアルバムが話題

加藤君の「光のこうしん」この5月に購入しました。

今は、休学などではなく在宅学習と聞きましたが、状態はあまり良くないとも…
今回の訃報は、残念で仕方ありません。とても悲しいです。

加藤君、亡くなってしまったのですね。まだ高校2年生なのに…残念です。
でも、中2の秋に発病して、2年と少し…とてもつらかったと思います。本人やご家族の思いを考えると、こんなところで簡単に書けるような和田氏ではありませんが、今はゆっくり休んでもらいたいです。天国でも素敵な曲を作ってほしいな。

ご冥福をお祈りいたします。
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 脳腫瘍と闘いながら作曲活動を続けた高校生の加藤旭(かとう・あさひ)さんが今月20日、亡くなった。16歳だった。

 26日、音楽活動団体アーツスプレッドの公式サイトで発表された。母の希さんが「懸命に病と闘ってきた息子ですが、2016年5月20日、16歳(高2)で旅立ちました。『船旅』という自作ピアノ曲を聴きながら、『じゃあ行くね』と自分で旅立ちを決めたような表情でした」と報告した。

 加藤さんは昨年5月、ピアノ曲27作品を収録したファーストアルバム「光のこうしん」を発表。大きな注目を集めた。
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 1999年10月、滋賀県彦根市生まれ。3歳からピアノを習い始め、4歳で楽譜を書き始めた。小学3年の時に「小田原ジュニア弦楽合奏団」に入団。東京交響楽団が毎年サントリーホールで行っている「こども定期演奏会」のテーマ曲に作品を応募。2006、09年と採用された。

 中学2年の秋に脳腫瘍を発症。希さんによると、今年に入り、病状が悪化。3月半ばから「いつ呼吸が止まってもおかしくない」ギリギリの状態になったが、2枚目のCD制作がスタート。5月初旬には「意識も朦朧としているはずなのに、両手をゆっくりと鍵盤に乗せ、愛おしそうに鍵盤を押しました。もう上半身の自由は奪われ、手にほとんど力は入らない状態です。指先に、体すべての力を気迫で集めているようでありながら、鍵盤に触れる手の動きはいつもの彼らしくエレガントに見えました。極限状態であっても音楽を愛している旭の姿に、家族は圧倒され、言葉を失い、見守りました」。

 5月18日は次作CD「光のみずうみ」の入稿日。希さんは「旭は入稿を見届け、翌々日、自分でそのタイミングを決めたように旅立ちました。今頃、旭は自由に走り回り、以前のように手書きで音符を記している気がします。そして、旭を知ってくださった皆様、応援してくださった皆様の中で、生き続けてくれるよう感じています。旭の音楽が種となり、どこかで思わぬ芽を出してくれるかな、と想像したりもします。皆様とのご縁から生まれる、あらゆる可能性を信じたいと思っております」と愛息への思いをつづった。


 脳腫瘍と闘いながら作曲活動を続けた高校生の加藤旭(かとう・あさひ)さんが今月20日、亡くなった。16歳だった。

 26日、音楽活動団体アーツスプレッドの公式サイトで発表された。母の希さんが「懸命に病と闘ってきた息子ですが、2016年5月20日、16歳(高2)で旅立ちました。『船旅』という自作ピアノ曲を聴きながら、『じゃあ行くね』と自分で旅立ちを決めたような表情でした」と報告した。

 加藤さんは昨年5月、ピアノ曲27作品を収録したファーストアルバム「光のこうしん」を発表。大きな注目を集めた。
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 1999年10月、滋賀県彦根市生まれ。3歳からピアノを習い始め、4歳で楽譜を書き始めた。小学3年の時に「小田原ジュニア弦楽合奏団」に入団。東京交響楽団が毎年サントリーホールで行っている「こども定期演奏会」のテーマ曲に作品を応募。2006、09年と採用された。

 中学2年の秋に脳腫瘍を発症。希さんによると、今年に入り、病状が悪化。3月半ばから「いつ呼吸が止まってもおかしくない」ギリギリの状態になったが、2枚目のCD制作がスタート。5月初旬には「意識も朦朧としているはずなのに、両手をゆっくりと鍵盤に乗せ、愛おしそうに鍵盤を押しました。もう上半身の自由は奪われ、手にほとんど力は入らない状態です。指先に、体すべての力を気迫で集めているようでありながら、鍵盤に触れる手の動きはいつもの彼らしくエレガントに見えました。極限状態であっても音楽を愛している旭の姿に、家族は圧倒され、言葉を失い、見守りました」。

 5月18日は次作CD「光のみずうみ」の入稿日。希さんは「旭は入稿を見届け、翌々日、自分でそのタイミングを決めたように旅立ちました。今頃、旭は自由に走り回り、以前のように手書きで音符を記している気がします。そして、旭を知ってくださった皆様、応援してくださった皆様の中で、生き続けてくれるよう感じています。旭の音楽が種となり、どこかで思わぬ芽を出してくれるかな、と想像したりもします。皆様とのご縁から生まれる、あらゆる可能性を信じたいと思っております」と愛息への思いをつづった。
by hata_28ych | 2016-05-29 19:43 | 中学入試 | Comments(0)

ストーリー 脳腫瘍の16歳、作曲支えに(その2止) 僕がいる意味って 毎日新聞 2016年2月14日 東京朝刊

 ◆自問続け「誰かの役に立ちたい」

ひらめきの480曲

 加藤旭(あさひ)さん(16)=神奈川県鎌倉市=が頭痛を訴え出したのは2013年10月初旬、部活動のバドミントンに励む中学2年の秋だった。家族は初め、「ぜんそくのせいかな」と考えた。その持病は、低気圧の影響で発作が起きやすくなるとされ、台風の季節になると、調子を崩すことが多かったからだ。

 しかし、痛みはやがて勉強を妨げるほど強くなり、ある日、授業中に耐えられなくなった。「病院へ行く」。旭さんは母希(のぞみ)さん(43)に携帯メールで伝え、自宅近くの脳神経外科を受診した。磁気共鳴画像化装置(MRI)で、はっきりと脳腫瘍が確認された。

 その2週間後、東海大医学部付属病院で11時間に及ぶ手術を受け、側頭葉から腫瘍を摘出した。だが、1年もたたない14年8月に再発。小脳からの摘出手術を受けた後のMRIで、脊髄(せきずい)にも腫瘍が見つかった。11月から抗がん剤治療を始め、15年2月下旬から4月上旬まで、放射線治療を受けるため入院した。旭さんのA5判の手帳は3月のカレンダーに1日ずつ斜線が引かれている。放射線治療に伴う頭痛や嘔吐(おうと)、倦怠(けんたい)感、脱毛、意識混濁。つらい1日の終わりに、その日を乗り切った印を残し、入院生活の支えにしようとしていた。

 目が見えにくくなり、記憶が途切れ出すようになった。「僕がいる意味って何だろう」。自身に問い続ける闘病生活で、確かなことが一つあった。治療を続けてくれる主治医や看護師、応援してくれる家族や友人、学校の先生に支えられて自分がいるということ。「僕も誰かの役に立ちたい」。そんな思いが芽生えた。

 旭さんには、幼少期に開花した作曲の力があった。3歳でピアノを始め、10歳までに約480曲をつくったが、中学の受験勉強や部活動に忙しくなり、その後の闘病生活ですっかり忘れていた。思い出させてくれたのは妹の息吹さん(14)だ。「誰かの役に立ちたい」という旭さんの言葉を聞き、「お兄ちゃんの作曲を生かそう」と書きとめていた曲のCD化を提案した。入院から十数日目。希さんに「願い事を書いてみて」と言われた旭さんは手帳につづった。「自分の作った曲をなにかに役立てたい」。それまで「苦しい」「気持ちが悪い」など闘病のつらさが並んでいた手帳に、初めて前向きな言葉が書き込まれた。

 旭さんは、富士山や丹沢山系を望む神奈川県南西部の大井町で育った。家に希さんのピアノがあり、よちよち歩きの頃から鍵盤に精いっぱい指を伸ばして弾こうとしていたという。ピアノのふたが閉まっていると「開けて」とせがみ、3歳でピアノ教室に通い始めると、大人用の椅子に座って「本当にいつまでも弾いていました」と希さんは言う。楽譜をまねて画用紙に音符をお絵描きし、譜面にある音符が実際にどんな音なのか、鍵盤のどこをたたけばその音が出てくるのかをすぐに理解した。

 「旭の中で音楽が流れていて、それを楽譜で表現している」。希さんは、はっきりと感じた日を覚えている。

 4歳5カ月の時だった。旭さんに「あめあめふったふった」というタイトルと音符を書き込んだ楽譜を見せられ、「弾いてみて。ファはシャープにしてね」と言われた。希さんが弾くとト長調の曲になった。「旭が弾いてほしかったのと同じメロディー?」と聞くと、満面の笑みで「うん」とうなずいた。ファを半音上げれば、たしかに「雨がふってきたようなかわいらしいメロディーになって、楽しくなりました」と希さんは振り返る。

 「雪のけっしょう」「雨にぬれたなのはな」「きれいな夕やけ」……。頭の中に流れるメロディーをただ書きとめるだけという曲は、ゆったりと流れるような感じだったり、高音で速いテンポだったり、低音で暗く寂しい雰囲気だったり、高音と低音が入り交じって最後は和音で完結したりと変化に富む。自然に囲まれた大井町で、きれいな景色を見たとき、妹と遊んで楽しかったとき、珍しい動物を見たとき。日常の驚きや感動から旋律がわき出たことを感じさせる。

 旭さんに作曲の手法を教えた人はいないが、夢や希望を与えた音楽家はいた。旭さんは6歳から9歳まで、東京交響楽団などが主催する「こども定期演奏会」のテーマ曲に自作曲を応募した。「こども定期」はポスターに使うイラストから、テーマ曲、ソリストまでの全てを子どもから募集する参加型の演奏会。日本を代表する指揮者の一人、大友直人さん(57)も力を注いだ本格的なクラシックのプロジェクトだ。

 旭さんは6歳の時の「たのしいようちえん」、9歳の時の「おもちゃの兵隊」がテーマ曲に選ばれ、両曲とも作・編曲家の長山善洋さんがオーケストラ用に編曲し、サントリーホールで大友さんの指揮で演奏された。「自分が選ばれて、大友さんが指揮をしてくれたこと、本当にうれしかった」。旭さんの曲を聴いた音楽家たちが驚くのは質の高さはもちろん、ひらめきの量だ。「頭に浮かんだメロディーをいつでも書けるように五線譜を持ち歩いていた」と話し、メロディーが浮かぶと、ご飯も忘れて夢中で書きとめた。

 でも、受験勉強を始めた小学校高学年から作曲をしなくなり、中学に入ってからは勉強や部活動に夢中で作曲に心が向かなくなった。放射線治療を終えて退院した昨春、自宅療養中の旭さんに理由を尋ねると、「全然浮かんでこないんです。『作曲の力』って小さい頃で止まったのかな」と淡々と答えた。その頃は旭さんの視力が失われていった時期でもある。視界に入るものがゆがみだし、白が緑やオレンジといった全く違う色に見え始め、徐々に光を感じなくなっていたという。食欲も減退して体重が10キロ落ちた。妹の提案したCDが完成したのも同じ頃、退院から約1カ月半がたった昨年5月だった。

一筋の希望持ち続けて

昨年5月、三谷さんからCDを受け取る旭さん(右)=神奈川県鎌倉市で、小出洋平撮影
昨年5月、三谷さんからCDを受け取る旭さん(右)=神奈川県鎌倉市で、小出洋平撮影

 CD制作に尽力したのは、中学入学後からピアノを教えてくれた昭和音大准教授、三谷温(みたにおん)さん(56)だ。家族が手紙で旭さんの状態を伝え、CD化について相談すると、三谷さんは即座に演奏と録音を引き受けてくれた。

 5〜10歳の27作品を収めたCDのタイトルは「光のこうしん」。昨年5月、三谷さんから旭さんへの贈呈式も開かれたが、旭さんは可動式のベッドに横たわったまま、ほとんど上体を起こせなかった。「CDは病気や障害がある小さな子どもの家族に聴いてもらいたいです。それで、どうなるか分かりませんが」と慎重な言い方もした。「幼少時に遊びで作った曲」をCDに収める価値があるのか、人の役に立てるのか。旭さんの言葉からは、そんな不安が伝わってきた。

 ところが、大きな反響があった。「希望を持ちながら病気と闘う子どもたちの顔が目に浮かぶ」「身内にいる重度身障者の子に響いてほしいのでCDを買いたい」「悪性腫瘍の手術をした小学生の娘に聴かせたい」。三谷さんが代表理事を務める音楽活動団体「アーツスプレッド」などにファクスやメールが次々と寄せられた。旭さんは家族に言ったという。「こういうことのためにCDを出したんだ。自分の知らない人が曲を聴いてくれて、音楽でつながっていくことがうれしい」

 再び音楽に心を向けると、旭さんの体調は上向き始め、家族と一緒に食事ができるようにもなった。CDには児童文学作家、中川李枝子さん(80)の「くじらぐも」をモチーフにした曲も収録され、合唱用の楽譜が発刊された。昨年8月に記念の会が催された時、旭さんは上体を起こして参加者の合唱を聴き、友人と握手したり、談笑したりした。自宅では毎日、キーボードに触れるようになり、音楽を奏でる楽しさを思い出していった。

 こうした日々に、断片的な旋律が頭に浮かぶ瞬間があった。はっきりと形を現したのは8月の終わり。猛暑が途切れ、ひんやりとした空気を感じた朝、旭さんはベッドにいた。切ないメロディーが頭の中に流れた。視力をほぼ失って五線譜に記せないため、メロディーをキーボードで弾き、指の動きを希さんが動画撮影して記録した。後に、キーボードで弾いた音をパソコン上で音符に変換できるソフトを見つけ、今はこのソフトを使い、旭さんがパソコンとケーブルでつないだキーボードで音を取り、希さんが音の長さなど細部を整えて楽譜にしている。

 取り戻した「作曲の力」は、闘病生活のつらさと不安、それに押し流されまいとする意志の強さと結びついているのだろうか。昨年10月6日、旭さんが「朝ご飯がおいしくて幸せ」と言い、明るく1日が始まったその日の夜だった。希さんが「おやすみ」と声をかけようとすると、ベッドの旭さんが右腕で顔を覆った。日ごろから頭痛を警戒していた希さんが「痛い?」と尋ねると首を振り、「つらい?」と聞くとうなずいた。「どこが?」。旭さんは顔を覆ったまま、左手を拳にして胸をトントンとたたいて言った。

 「視覚障害者としての覚悟ができたと言ったけれど、そんなものはできていなかった。明るい世界が恋しい。光のある世界への憧れを捨てきれない。お母さんの顔だって見たい」

 とめどなく涙がこぼれ落ちたその時、新たなメロディーが生まれた。既に浮かんでいた短調の旋律から、明るい長調へ橋渡しをする部分だ。旭さんは携帯端末の画面上を8方向にスライドさせて文字を入力するアプリを使い、転調部分を端末上に夢中で記録し、翌朝から希さんと楽譜の入力作業に取りかかった。ベッドからキーボードの前に移動して座り、一音ずつ弾いて音を確かめ、何度もパソコン上で再生しながら推敲(すいこう)する。普段は30分も座っていると下半身に痛みが出るのに、2時間続いても平気だった。

 5日後、3分を超す曲の楽譜が完成した。「暗闇から一筋の光が見えてきたようなイメージ」で、曲のタイトルを「A ray of light」、邦題を「一筋の希望」とした。「僕と同じような方が曲を聴いた時、暗いところから明るいところに向かってほしいと思った」

 翌11月には、東京・銀座のヤマハホールでCDの収録曲がオーケストラ演奏された。「こども定期」の縁で旭さんを知る指揮者の大友さんと三谷さんらによる企画だ。若手の作曲家、熊倉優さん(23)が曲をアレンジしてバイオリン、ピアノ、弦楽オーケストラのための合奏曲にまとめ、三谷さんがピアノ、大友さんが指揮を務めた。「一層、音楽の世界に引き込まれました」。公演後、作曲家として正装し、ほほ笑みながら話す旭さんを、大友さんと三谷さんは温かく見守っていた。旭さんを往診している医師、関谷恭介さん(40)は言う。「オーケストラの演奏にキラキラ目を輝かせて耳を傾けているのを見て、音楽が今の旭君にとってかけがえのないもの、不可欠なものだと感じました」

 「今年は、いろいろなことがあったが、たくさんの方々に支えていただき、どれだけ苦しいことでも乗り切ることができた。これからも、目の前に立ちはだかるどれだけ高い壁にもめげず、一歩一歩でもいいので、前へ進んでいきたい」

 昨年の大みそか。日記帳代わりにしている携帯端末に旭さんはそう記した。年明けの1月2日にけいれん発作を起こして意識を失い、自宅近くの総合病院に運ばれた。その後も5回のけいれん発作で入退院を繰り返したが、今は自宅療養に戻り、再びキーボードに向かっている。

 旭さんは、闘病中の子どもたちへの祈りをCD制作に込めたという。「病気の子どもたちも何かをしたいという気持ちを持っていると思う。周りの人にも、子どもたちが何をしたいのか、何ができるかを考えてもらえるとうれしい」。やりたいことを実現できたら、病気の子も寂しくないかもしれない。自分にとっての作曲のように。


by hata_28ych | 2016-05-14 20:39 | 中学入試 | Comments(0)

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